がれきそのものが黄金の仮装であったことを見破る者は詩人である
茶道の精神
妻が茶道に興味があるとオーストラリア人の友人に話すと茶道教室を紹介してくれました。
そんな経緯で先週末はみんなで初の茶道教室となりました。
私と子供達は抹茶と茶菓子のお裾分けがもらえるといいな、という下心で妻に付き添いです。
もう定年退職されたご夫婦が指導をしてくれました。
「ここで過ごす時間は日常の息抜きと思ってください」と最初に奥さんから笑顔で声をかけられます。道具の準備をしながら、茶道についての説明です。
茶道とは気遣いの場であると。
茶を煎れる人は、もてなされる人に気を遣い、
もてなされる人は、煎れる人に気を遣う。
その気遣いが茶道特有の言葉や、茶碗を回す行為、その他一つ一つの所作に表れているそうです。大切なのは所作ではなくその理由だと。
一見、お茶とは関係なくみえる掛け軸や室内の置物、それらも含めて空間を構成する全てがお茶を飲む人に対する気遣いであることも知っておいてください、と。
なるほど、説明を聞きながらその奥深さに圧倒されていると、隣に座っていたオーストラリアの友人が、
「お点前頂戴いたします」ととても綺麗な日本語をつかい、美しい所作でお茶を飲み始めました。師範のご夫婦はそれをとても嬉しそうな笑顔で見守ります。
茶菓子目当てに来た事が急に恥ずかしくなりました。
介護は茶道のような気遣いで成立していたらしい
師範をされている奥様は以前この離島で福祉の仕事をされていたそうです。
その頃は介護保険制度もなく、高齢者がお風呂に入らなくなったり、買い物に行けなくなったりすると親戚や近所の人たちが分担してサポートしていたとのこと。「いつかは自分も介護される側に回る」「今まで世話してくれた人へのお返し」そんな気持ちで介護が成り立っていたのだと。
介護制度が整ってとても便利になったが、近所や親戚付き合い、挨拶や井戸端会議を通してのお互いのお気遣いが減ってることが心配だと、これまた優しい目で話されます。
介護保険以前を知らない医師の私にはとても興味深い話でした。
よくできたシステムは物事に普遍性、持続性を与え脚光を浴びますが、その光が見えにくくすることもあります。
『道端のがれきの中から黄金を拾い出すというよりも、むしろがれきそのものが黄金の仮装であったことを見破る者は詩人である』
中学の頃、強制的な読書の時間で読んでいた高村光太郎の詩集の言葉を思い出しました。日本の義務教育も捨てたもんじゃないと思いました。